家に戻って、キッチンのテーブルの前に座ると、内藤さんは「やれやれ疲れた」と声に出して言うのでした。本当は山に行きたかったのに、娘に頼まれて、孫の子守りに1日を費やしたのです。
なんだかんだのヤボ用に追われて、あろうことか、もう2週間も山に行っていません。責任がないだけに、孫は目に入れても痛くないと世間ではいわれています。内藤さんだって、うちの孫は世界中で1番かわいいと思っています。ただ彼らより山のほうにずっと夢中なんですね。
ふわっとタメ息をつくと、内藤さんは立ちあがり、夕食の準備にとりかかりました。「痛っ!」我に返ってマナ板の上を見ると包丁は油揚げではなく、指先のほうを切ってくれていました。寸刻前、ミソ汁の実に油揚げを刻んで入れようという考えが頭の中にあったのに、いつの間にか山のことでいっぱいになっていたのです。いつ行こう、誰と行こう、どこへ行こう・・・視線は宙を漂っている状態で包丁を動かしていれば、いくらベテランの主婦だって失敗して当然でしょう。
たいした傷ではありませんが、流れる血をぼーっとながめながら、自分自身の山に対する熱い思いを確認するのでした。「そうなのよ、これは恋なのよ」と内藤さんは思います。山登りのどこがそんなにいのかと他人に聞かれても、説明することなどできません。景色がいいとか、空気がおいしいとか、そんなものだけじゃないんです。恋愛真っ只中の人が3日間恋人と会わなかったら気がくるうのと同じように、2週間も山に行かなかったら不機嫌も当然だと、内藤さんは思うのでした。
「ただいま」、ご主人のご帰宅。夕食の準備はまだですし、お風呂も沸いていません。空のテーブルの前に座ったご主人は、理解してらっしゃいます。で、にやりと笑って言うのです。
「おい、山へ行ってこい」
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